私は感慨を込めて、ここアムステルダムの港に打ち寄せる穏やかな波を見ていた。
大学を辞めて、海に旅立ってからもう三年程が立つ。
本当は波涛の彼方にある、まだ誰も知らない世界を探求し、それを地図に記すのが夢だったのに。
そして友人でもあるメルカトールと共に、それについて議論を交わしたいだけなのに。
私の亡父の友人だという航海士のスタッテンさんに、はめられたようなものだ。あの旅立ちの日、彼は私にこう言ったのだ。
「坊ちゃん、いや提督、北欧の探検もいいですが、資金稼ぎも大切ですね」
「うん、そうですね。まずはどうしたらいいんですか」
「ギルドですよ、ギルド。色んな仕事が提督を待ってますよ」
アムステルダムのギルドへいくと、機嫌の悪そうなおじさんが私をジロジロ見ながら仕事を紹介してくれた。
「え~なになに、借金の取立て、借金の取立て、借金の取立て、って、全部同じ仕事じゃないか?」
「ああ、それはついてますね、さっそく引き受けましょう!」
スタッテンさんは私の戸惑いなんて無視して、一番上の表示の借金取立てを気安く引き受けてしまった。
「ス、スタッテンさん、もう食糧がないよぉ! 死にそうだ……」
「ヴェネツィアは……ひいひい……遠いですね」
メルカトールの用意してくれたラティーナ船メルカトール号は、最小限の装備しかなかった。
借金の取立てを請け負ったのはいいけれど、ヴェネツィアのシャイロック銀行本店で直々に取立て依頼をするという。これがまた、アムステルダムから遠かったりした。
一気にイベリア半島を越えて、リスボン、セビリアをわき目も見ずにジブラルタル海峡へ。途中、不気味な赤ひげ、黒ひげの海賊兄弟と間一髪すれ違いながら、北アフリカ沿岸を東上する。
長靴に似たイタリア半島を越えた辺りで、積み込んでいた食糧と水がなくなった。ナポリ、シラクサと港はあったが、もう現金がないのだ。とりあえずヴェネツィアを目指して一路進むだけ。
ラグーザが見えたが、水夫がばたばた倒れていく。後もうちょっと、もうちょっと、アドリア海は、風も海流もうまくいかずに苦しんだ。
結局ヴェネツィアに到着した時、満足に動ける水夫は十人ほどに減っていた。
「な、何とか……到着ですね、提督」
「む、無理な航海は、もうやめようね、スタッテンさん……」
「はい……面目ないです」
旅の汚れに辟易していたが、今晩の食事代だってないのだ。下船したすぐその足で銀行に向かった。美しいヴェネツィアの町並みに見とれる余裕なんて、今の私にはなかった。
途中で会うヴェネツィアの人達の私達を軽蔑したような視線に怯むことなく、リアルト街にあるシャイロック銀行の門を叩いた。
頭取はイヤな顔一つせず私達に会ってくれ、仕事を依頼してくれた。
「フェルナン・ピントという男が借金を返さずに困っています。取立てをお願いします」
「判りました」
銀行の出口で私はスタッテンさんに囁いた。
「で、どこをどう探すんです?」
「酒場です、酒場。船乗りは酒場か宿屋と相場が決まってます」
「あ~待って下さいよ、スタッテンさん、酒場にいってもいいけど、お金ないんですよ!」
私は、意気揚揚と酒場に向かうスタッテンさんの後に着いていった。
フェルナン・ピントは何とその酒場にいた。このヴェネツィアにいた。最初は散々憎まれ口を叩いていたが、スタッテンさんが凄むと震えあがって、金塊を渡してくれたのだ。
「いやあ、凄いなあ、スタッテンさんは! さすが海の男だね」
「たいしたことないですよ、あんなヤツ。ジブラルタル海峡ですれ違った赤ひげや黒ひげに比べたら、屁でもありませんぜ」
「え~そんな凄いの、あの二人?」
よいしょよいしょとニ人で金塊を銀行に届けると、頭取は気前よく報酬をくれた。見たこともない金貨五千枚を手にぼうっとしてしまったが、スタッテンさんの顔を見るとすぐに本来の任務を思い出した。
酒場で水夫を最低人数分雇い、大海原へ旅立とうとすると、スタッテンさんがこう提案してきた。
「ねえ、提督、モノは相談ですが、ここのギルドで仕事をこなしていきましょうよ」
「う~ん、どうしようっかなあ」
「お金稼げて、いい船に乗り換えられますよ」
結局私はその一言に負けてしまった。ここヴェネツィアを拠点にして、借金の取立て稼業を数件行い、もう一隻のラティーナ船を購入するまでになった。
そして儲かる交易ルート、アテネとイスタンブール間を幾度となく往復し、中古のガレオン、ガレアスを所有するようになった。
こうなると、後はもうとんとん拍子である。アムステルダムの総督から呼び出しが掛かり、条約の締結や国書の受け渡し、遂には海賊や敵国ジェノヴァの戦艦隊の討伐命令をもらい、私は貴族に列せられるようになったのだ。
貴族になると、自分自身が変わっていないつもりでも、周囲の目が違ってくる。
大学教師時代の同僚だった仲間達は、私が街中で見かけて気安く話しかけると、会釈して早々に立ち去ってしまう。
反対に、今まで私につんとしていた門閥貴族達が私にペコペコしてくるから、参ってしまう。その貴族の令嬢達は、私が独身と知ると、自室にまで押しかけてくる始末だった。
親友だったはずのメルカトールに会いにいっても、おや、新しい地図はないのですか、と冷たくあしらわれる始末だった。
地中海とフランドル航路以外、まったく開拓しないでいた結果である。
「くだらないな、世間の虚栄ってヤツは」
地理情報を知りたがっているメルカトールを裏切っている自分に気づきながら、彼と約束した自分を偽りながら、どこへいく当てもなく、酒場に向かった。
「どうしたのよ、先生、って今は提督でもない、侯爵様」
酒場の喧騒の中、街一番の美人娘リルが、カウンター席越しにビールを渡してくれた。
私はそれを呷り、咽喉に流し込んだが、あんまり酒が強い方ではなく、ゲホゲホとむせてしまった。
「あらあら、大丈夫ですか、ロペス先生、じゃないわね、ロペス侯爵?」
リルがカウンターの向こうからハンカチを持ってきて、私の顔を拭こうとする。最後の侯爵にかちんときて、
「やめてくれ! 私は世界の果てが見たいだけなんだ! 貴族とか爵位なんて、その辺の犬に食わせてしまえばいいんだ!」
「……」
リルはその蒼い瞳をみはらせていたが、やがて私の顔を拭き続け、その後黙ってカウンターの向こう側に手を引っ込めた。
困った。リルは黙々と手元のグラスや酒杯を洗うだけだ。私はひょっとして、彼女を傷つけてしまったのかもしれない。
「あのう、リル?」
返事がない。沈黙のまま、下を向いている。
私は椅子から立ち上がって、カウンターを回り込んだ。
「リル、ごめん。ちょっといろいろストレスが溜まってて、つい君に声を荒げてしまった。すまない……」
しかし、それでも返事がなく、近づきにくい背中に手を伸ばそうとすると、
「ウフフフ、アハハハ!!」
リルはこちらを向いて、あろうことか笑い出していた。訳も判らず、私が見ていると、とうとう涙まで出して笑い出した。
「???」
「アハハハ、そのロペスさんの困った顔ったら、ウフフ、アハハハ!」
「リル、怒ってないのかい?」
ようやく笑い終えたリルは、ハンカチで涙を拭く。やがて彼女は言い出した。
「あのねえ、あたしは酒場で働いてるの。ロペスさんよりタチの悪い酔っ払いと毎日、戦ってんだから」
「そ、そうなのか?」
私が尋ねると、リルはにっこり、大輪のひまわりのような笑顔をしてみせた。
そうか、と私は心の中で思った。
リルは酒場娘なのだ。毎晩、船乗りの荒くれどもの相手をしているのだ。男達はくだらない言い合いからケンカをし、彼女はきっとその仲裁に入るのだろう。時には彼女の心を惹こうとし、様々な贈り物を渡すだろう。
その男達の間をすり抜けて、リルは今晩もたくましく生きているのだ。
「ねえ、ロペスさん?」
「あ、あ、何だい?」
「悩みでもあるの?」
う、思い切り、リルにばれている。海千山千の彼女は、人生の達人なのかもしれない。
「よかったら、私に話してみない? これでも伊達に酒場で働いてないのよ」
そういえば、酔っ払いが、まるで母親に甘えるようにリルの膝にすがって何やら話しているのを見たことがある。酔っ払いをあやす彼女の顔は、マリア様のように見えていたっけ。
よし、これも一つの試練だ。
私は飲めないビールを呷りながら、リルにすべてを話してみることにした。
「ふうん、あ、そうなの? あら、ま、まあ! ひどいわね!」
リルが私の話を聞いてくれている。
悲しい旅の話になると、瞳をウルウルとさせ、楽しい話や滑稽な失敗談になると、コロコロと笑う。ギルドで依頼された残虐非道、極悪非道な海賊を倒した時の話になると、カウンターから身を乗り出して、こっちの話に聞き入ってくれる。
「そう、そこで私はバスタード(剣の種類)で払ったんだ!」
「それで、それで!?」
大きな瞳がこぼれるんじゃないかってくらい、リルが目を見開く。酔いが廻ってきたせいで、私は少々、オーバーがかっているかもしれない。
「見事、私の剣は、ジョン・デービスのサーベルを叩き落したってわけさ」
「キャーッ、ステキー、ロペスさん!」
何とリルが抱きついてきた。いい匂いと柔らかいその身体、そして何よりも不思議な、この重たげだが、むにゅりとした質感の物体。
「で? で?」
「え? あ、ああ、その後ヤツをギルドに送っておしまいさ」
思い返すといろんな戦いを経験してきた。新興国ネーデルランドのために、海賊や敵国の艦隊を倒してきた。
世界の隅々まで回るための資金稼ぎのために、敢えて遠回りの道を選んだのだ。血と汗と涙を流し、苦労してきたのだ。
酒場の二階に私を連れ込んだリルは、意味ありげに笑ってみせた。
「侯爵様」
「え、リル……私は酔っ払っちゃたかな?」
口を開かず、微笑むリルの顔が視界一杯に広がった。あっと思う間もなく、柔らかい唇が私のそれに触れた。
「!」
濡れた舌が私の口の中へ潜り込む。そしてベッドの上に重なった私達は、お互いを激しく求めるのだった。
服を脱がし合い、剥ぎ取り合い、それでも口は離れることはなかった。
「あ、あ、侯爵……様、ロペス侯爵様!」
豊かな乳房を露わにした情熱的なブロンドが、私に抱きついてくる。手を取られて探ってみれば、そこは充分に潤っていた。
「リ、リル、うう」
「あん、あんっ」
愛撫は必要なかった。早くもあふれ出た蜜液が私の指を汚していた。
「早くっ、早くう、提督、先生っ、侯爵様!!」
私を呼ぶ声は濡れていた。
跨ったリルは、一瞬の間に己の身体のうちに私を納めた。そして戸惑う間もなく、腰を振る。振る、というより、打ち振る、のだった。柔らかい肉の中に私は埋没した。甘美で、優美で、花のようなリルの肉体。そのくせ、彼女はたくましかった。
私の上で、激しく踊った。舞った。
「あっ、ああっ!!」
「リル!」
唇を奪って、奪いつくして、貪っていく。私は飢えたリルに食べられていた。私の首筋を吸う彼女の唇からは、いまだ見たことのない竜の吐息が洩れている。
「あん、ああん、あん、提督のが当たる、当たるの!!」
その声を塞いで、しかしすぐに息が苦しくなって、だが揺れる乳房にキスをした。
「やん、やん……あ、あっ!!」
リルの身体が一瞬動きを止めた。ひくひくと痙攣して、蝋燭に照らし出されてピンクに染まる美しい女。
「私、私」
か細い声が聞こえた。
「あ、ああ! いく、いくっ!!」
リルの絶叫を聞き、安心した私はその美肉の中に放っていた……
「誰とでも寝る女、なんて思わないでね」
「え?」
傍らで寄り添うリルの言葉に、私は聞き返していた。
「初めて酒場に来てくれた時から、提督、いえ、ロペス侯爵様のことが好きだったの」
「そ、そうなの?」
間抜けな返事である。
「誰とでも寝る訳じゃないのよ……あ、ああっ」
形を崩さない乳房に唇を近づけた途端、色っぽい声に変わった。リルを引き寄せて、再び美しいその身体を味わうつもりになっていたのだ。
「ご、強引なのね、見かけによらず……も、もっときつく抱いて、ね、提督」
私はリルによって生まれ変わったのである。すべからく女は、男を奮い立たせる存在なのかもしれない。それがこの世の真実なのかもしれなかった。
リルを抱いた後、再び海に出るつもりだった。次の勅命は何であろうとも、私はくじけはしない。大海原が私を待っている。
そして最後の勅命のジェノヴァの戦艦隊討伐成功によって、私は最高位の公爵にまで叙せられた。
……おかしいな、この私が公爵なんて……本当は波涛の彼方を見たいだけなのにな……戦闘なんてしたくなかったのに……
暗く深く、そして広い海は、寄せては返し、寄せては返しの繰り返しだった。
私のちっぽけな悩みなんか、この海には関係ないのだ。
「ここにいたんですか、提督?」
不意に後ろからスタッテンさんの声がした。
「提督、じゃなくって公爵様ですね」
「はは、私はそんな柄じゃないよ」
「しかし、これでパウラちゃんも公爵夫人ですね、お似合いのニ人だなあ」
「へ?」
「じれったいくらいですね、二人の関係は」
……パウラって誰?……
スタッテンさんは独りで喋って、独りで涙して喜んでいる。
だけど「パウラ」って誰だ? 私には婚約者もいなければ、教え子にもそんな名前の娘はいない。
「スタッテンさん、私にはそんな人いないよう!」
何を言っても、私の公爵叙任祝賀会でのお酒に酔っ払ったスタッテンさんは、取り合おうともしなかった。
「教えてくれ、誰なんだ、パウラちゃんって、何それ、誰のことなんだーっ!」
「はあ、めでたい、いや、実にめでたい……これでパウラちゃんも」
涙ぐみながらスタッテンさんはまだ言っていた。
「ひどい……エルネスト、あなたってそんなひどい人だったの?あたしがいながら、他の女の人と結婚するなんて!」
「あっ!」
ランプ灯の下で、話を聞いていたらしいリルの怒った顔が私を睨んでいた。それは、この世で心底一番恐ろしいもののように見えた。
(了)
亭主後述・・・
大航海時代2って知ってます?
光栄、今はKOEI、いやコーエーテクモですか、三国志、信長の野望以外で私の大好きなゲームです。
はっきり言って名作です。外伝もいいですが、興味があれば2を是非どうぞ。
さて、エルネスト・ロペス編。彼はオランダの地理学者ですが、冒険名声を上げるとパウラちゃんという可愛い彼女に出会います。ところが戦闘などを繰り返し、海賊名声だけだと上記のようなことになります。
いえ、リルとこんなことはしないのですがね。言わばバグでしょうか。(笑)
さ、カタリーナ編で海賊しようかな、それともオットー編で無敵艦隊と戦おうかな。ん、アルはいいや。(爆)
なお、タイトルはレジーナ・ベル&ピーボ・ブライソンさんが歌った大ヒット映画のテーマ曲です。